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森と林の境目

駄文。筆遊び。


記憶が定かでないが、学校で習った英語では林は woods と訳し森は forest と訳すことになっていた気がする。しかし、英語の woods は本当に日本語の「林」という概念に完全に一致するのか、または、森と林の区別は woods と forest の区別と同じなのか、と考えると多分違うのだろう。

では森と林を外国の人に説明するなら、それぞれどのように述べることができるか。素朴には森と林の違いは規模の違いの気がする。しかし、その境目をどの程度の規模とするかは人によるのだろう。個人的には民家数軒分の敷地面積ぐらいであれば森とは呼ばない。グラウンドぐらいの大きさになれば、漸く小さな森という感じがする。然し、本当に規模だけの違いなのかと、自身の感覚に問うてみるとそうでもない気がする。森と林はそれぞれ異なる種類の概念であって、規模の違いは概念の違いから副次的に生じる違いなのではないか。

よく分からなくなったので他の人が何と言っているのか調べてみた。分かったことは、さまざまの分野の人が挙って異なる説を主張していて、それぞれにそれらしい理由付けが示されているということである。特に、どの人も独特の自説が確実であるかのように記していて、少々不健康ではないか。一通り様々の異なる説を見た後に、改めてそれぞれの理由付けを見るとそれぞれこじつけに見えてくる。

色々の説を較べて気づく重要なことは、「森」と「林」の対立概念は文脈や使われ方毎に存在するようであるということである。

和語としての成り立ちから迫る考え方がある。森(盛り)と林(生やし)ということから色々想像できる。或るページによると、林は人が木を "生やし" たものだから人の手が入ったものを林というのだそうだ。然し、別のページでは全く逆のことを主張している。林は木を "生やし" たままに放置したものであるから、人の手が入っていないものを林というのだそうである。結局、古代の日本語において "もり" と "はやし" がどのように使い分けられたのかを現代の日本語を用いて憶測しても詮無いことである。更に、古代の使い分けがそのまま現代に生きている訳でもないことにも注意しなければならない。

森や林の字を含む熟語から意味の違いを量ろうという立場も見られる。ここに【シン/リン】の別と【もり/はやし】の別を混ぜた怪しげな議論が多く見られる。【もり/はやし】にそれぞれ【森/林】の字を当てたのは、当時の中国語での【森/林】の概念の違いが【もり/はやし】の概念の違いに近かったからだろうが、さりとて両者が完全に対応する概念だったとは思われない。丁度【forest/woods】が【もり/はやし】に厳密に対応する訳ではないように。所で、日本語の【シン/リン】と現代中国語の【森/林】にも同様に隔たりはあるのだろう。

更に、「熱帯雨林」「針葉樹林」「原生林」のような、地理や林業において使われる術語を参照して「林」の概念に迫る議論も見られるが、これは尚も怪しい。林業が対象とするような木の集合を「林」というのだと結論づけているが、これはおかしい。そもそも地理や林業では「森」ではなく「林」が専ら使われ、そもそも使い分けもないので話題に上る全てが自明に「林」になってしまう。

「林」という語から浮かぶイメージに「林の中の小径」がある。しかしこれは西洋文学の訳によって齎されたイメージではなかろうか。「森」も西洋文学のイメージがある。そう考えると、実は【forest/woods】という概念も現代の日本語には影響を与えているのではないかと思われてくる。

しかし、由来だの理由付けだのといったことを離れて、実際に人の中に生きている「森」と「林」の概念を考えてみると、様々な熟語や用例を見るのは理に適っていると言える。実際に人が「森」「林」という単語や字を使うときに、わざわざ古代の語源を思ったり、それが音読みか訓読みかを意識したり、或いは生活で生じた語か学問的に導入された語かを区別したりはしない。ただただ実際に使われている用例が概念を形作るのである。そして、その概念の境目は歪で容易に言葉で記せるものではないはずである。

この立場から考えると、用例から両者の意味の区別を言葉として抜き出そうとするのは物事を単純化し過ぎである。「森」と「林」の概念は、長い歴史の中で様々な言語・地域・分野で形成され、互いに影響を与え混ざり合いながら発展してきたものであり、そして今も変わり続ける生き物である。結局、外国の人に説明するときには適当に誤魔化して説明するしかない。